新刊本を芦田さんが出すといっていたとき、自分には関係のないものであろうという気がしていた。
ところがタイトルが「努力する人間になってはいけない」といって仕事と新人の話だというので、正直とても興味を持つようになっていった。
哲学的な解釈ではなくて、新人の直面する仕事に対しての実践的な面において、それが自分の中で仕事に対するモヤモヤしたものを解決してくれるかもしれないという期待だった。もっというと、仕事に対する態度について、何がしかの方針が知りたかった。
「新刊出るよ、こない?」と言われて「絶対行きます」と応えたのは、仕事について迷いがあったからだった。
自分が新人でないことは百も承知の上で、新人が認められていく過程というのが自分と共通するのではないかと考えていた。
そんな背景には、自分自身が会社で作った作品が社内では理解を得られず、外部で評価を受けることになって次どうしていいかわからなくなってしまった、ということもあった。
自分は多方面でなんでもできるスーパーマンではないので、完成させることに対して情熱を持っていたものの、足りない部分を繕うようにして見過ごす部分もあった。
芦田さんのこの本では、新人が出会うだろう、社会に出たと同時に
どうしようもなく発生する理想や思い込みと、現実の間に気が付いて
乗り越えていってほしいという希望が語られている。
その一つの形が「努力する人間になるな」ということに現れている
努力というのは、ここでは単純に時間さえあれば解決すると考える「努力」をさしている。
仕事は時間を使うものだけれど、「工夫なく単純に時間をかけて解決する」
という解決しかできない人でいてはいけない、ということを感じた。
もし労働が、時間をかければ誰でも解決できるものであれば、
その人でなくてよい仕事でしかない。
もっといえば、ある仕事を時間だけかければ済むように手配する必要があって
そこから先は、几帳面なアルバイトにお願いすることもできるわけだ。
単純な努力をしないための考えをする努力を諦めてはいけない
もう一つ、気になる部分があった。
「新人は、新人として認められた時点で新人でなくなる」という言葉の紹介がハイデガーから着想する部分がある。
(ここでの新人は、どちらかというと新人賞を受賞して処女作を発表した、
そういう力を認められた新人をさすわけだけど)
これは自分には、完全に納得のいく言葉ではなかった。
ただ認められただけで、新人はその作品をもって「これこそ我が意、我が問いかけ、そして珠玉の作品」ということはできない。内部の人からの期待が込められていて、それは世の中の人に広く受け入れられたことを意味しない。仕事の新人でいえば、内定が出たことをもってその会社に必要であることを認められたわけではない。
これから先、世の中に必要だと感じるものを生み出していく、なにかしらの義務があるんである
ラヂオの時間の話が出てくる部分と共通するのだが、新人は(新人賞の新人も、仕事を許された新人も)、批判を受けることを恐れてはいけない。最終的に赤を入れられまくっても残ったものは、
どうあがいても認めざるをえない泥の中の輝きだからだ、
そういうことが書いてあって、大学院でも叩いて叩いてそれでも残った
「そういうけれどデータはそういう結果になっていない、他は間違っているかもしれないけれど
そこはゆずれない。それを確かめるために明日実験して確かめる」というまで疑って叩く先生がいる。
泥をかぶっていくようにも取れるし、不純物を熱して取り去る鉄の精錬過程にも思える。
表現し続けること、批判を受け入れていくこと、変化することが怖くないうちに学んでいくこと
どこか揺らがない信念と柔軟さを両立させて維持すること
他のツイッター微分論とかは、きっと他の人が書くからいいとして自分としては、最低限自分と自分が作ったもの、関わったものを、社内をはじめサービスを受けた人に喜んでもらいたいわけだ
ちょっと読書感想文的なことを書くと、哲学というとどうも言葉上のこと、考えについてのことと思ってしまうけれど、この本は哲学書ではない。
実践の中で、あーでもないこーでもない、と自分の心が迷って動き出せなくなってしまうときに、これまでとは違ったやり方であーでもないこーでもないと動き出すために、必要な言葉集だった。
ところがタイトルが「努力する人間になってはいけない」といって仕事と新人の話だというので、正直とても興味を持つようになっていった。
哲学的な解釈ではなくて、新人の直面する仕事に対しての実践的な面において、それが自分の中で仕事に対するモヤモヤしたものを解決してくれるかもしれないという期待だった。もっというと、仕事に対する態度について、何がしかの方針が知りたかった。
「新刊出るよ、こない?」と言われて「絶対行きます」と応えたのは、仕事について迷いがあったからだった。
自分が新人でないことは百も承知の上で、新人が認められていく過程というのが自分と共通するのではないかと考えていた。
そんな背景には、自分自身が会社で作った作品が社内では理解を得られず、外部で評価を受けることになって次どうしていいかわからなくなってしまった、ということもあった。
自分は多方面でなんでもできるスーパーマンではないので、完成させることに対して情熱を持っていたものの、足りない部分を繕うようにして見過ごす部分もあった。
芦田さんのこの本では、新人が出会うだろう、社会に出たと同時に
どうしようもなく発生する理想や思い込みと、現実の間に気が付いて
乗り越えていってほしいという希望が語られている。
その一つの形が「努力する人間になるな」ということに現れている
努力というのは、ここでは単純に時間さえあれば解決すると考える「努力」をさしている。
仕事は時間を使うものだけれど、「工夫なく単純に時間をかけて解決する」
という解決しかできない人でいてはいけない、ということを感じた。
もし労働が、時間をかければ誰でも解決できるものであれば、
その人でなくてよい仕事でしかない。
もっといえば、ある仕事を時間だけかければ済むように手配する必要があって
そこから先は、几帳面なアルバイトにお願いすることもできるわけだ。
単純な努力をしないための考えをする努力を諦めてはいけない
もう一つ、気になる部分があった。
「新人は、新人として認められた時点で新人でなくなる」という言葉の紹介がハイデガーから着想する部分がある。
(ここでの新人は、どちらかというと新人賞を受賞して処女作を発表した、
そういう力を認められた新人をさすわけだけど)
これは自分には、完全に納得のいく言葉ではなかった。
ただ認められただけで、新人はその作品をもって「これこそ我が意、我が問いかけ、そして珠玉の作品」ということはできない。内部の人からの期待が込められていて、それは世の中の人に広く受け入れられたことを意味しない。仕事の新人でいえば、内定が出たことをもってその会社に必要であることを認められたわけではない。
これから先、世の中に必要だと感じるものを生み出していく、なにかしらの義務があるんである
ラヂオの時間の話が出てくる部分と共通するのだが、新人は(新人賞の新人も、仕事を許された新人も)、批判を受けることを恐れてはいけない。最終的に赤を入れられまくっても残ったものは、
どうあがいても認めざるをえない泥の中の輝きだからだ、
そういうことが書いてあって、大学院でも叩いて叩いてそれでも残った
「そういうけれどデータはそういう結果になっていない、他は間違っているかもしれないけれど
そこはゆずれない。それを確かめるために明日実験して確かめる」というまで疑って叩く先生がいる。
泥をかぶっていくようにも取れるし、不純物を熱して取り去る鉄の精錬過程にも思える。
表現し続けること、批判を受け入れていくこと、変化することが怖くないうちに学んでいくこと
どこか揺らがない信念と柔軟さを両立させて維持すること
他のツイッター微分論とかは、きっと他の人が書くからいいとして自分としては、最低限自分と自分が作ったもの、関わったものを、社内をはじめサービスを受けた人に喜んでもらいたいわけだ
ちょっと読書感想文的なことを書くと、哲学というとどうも言葉上のこと、考えについてのことと思ってしまうけれど、この本は哲学書ではない。
実践の中で、あーでもないこーでもない、と自分の心が迷って動き出せなくなってしまうときに、これまでとは違ったやり方であーでもないこーでもないと動き出すために、必要な言葉集だった。
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by intangiblewords
| 2013-08-08 00:47
| 色 Shiki